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想い出話 2024/07/11(じいちゃんにまつわる思い出)

忘れてたけど、もう30年近く経ってた。

高3の時、一時的にじいちゃんが退院してた時期があって、最初で最後の小遣いをくれたときがあったんです。
なんか、僕の高校って、なぜか春休み中に修学旅行に行くって話になってて、その出発する日、早朝に、特に袋にいれることなく、財布から取り出して、僕に渡してくれたんです。僕は、意図が理解出来なかったんです。でも、17歳じゃ、理解できるわけがなかったんです。

僕のじいちゃんは、戦時中、満鉄で働いて、終戦後に日本へ帰ってきて、ばあちゃんと結婚。かかあ天下だったじいちゃんは、その後町工場で働き、定年後はパートとして、今はもうない隣町のイトーヨーカドーで働き、75歳で雇い止めになりました。それからのじいちゃんは、当時飼っていた犬の世話と、水墨画をしつつ、20時には眠りにつき、翌朝5時には起きる生活を送っていました。
その頃、僕は不整脈が発見され、学校の長期休業のときには、大学病院に通い、24時間の心電図を取り、先生にチェックしてもらい、向こう半年ぐらいの過ごし方をレクチャーされていました。まあ、特に難しいことはなくて、息苦しくなったら、止まることを勧められただけ。だから、保健体育の成績は、5段階中2だったことが多かったです。
ある時、じいちゃんはその大学病院に、がんの摘出手術のために入院します。と言っても、摘出後は数日で退院出来たものの、年齢はすでに82歳。がんの進行が遅いとはいえ、残された寿命はそれほど長くないと、医者は説明しました。たまたま、同じ日に検査に来ていた僕も手術に立会、そのまま、その話を聞きました。僕の人生観が壊れたのは、このときだと思っています。一生懸命頑張って生きても、病気には勝てない。迫る寿命には抗えない。自分も不整脈を持っていて、なにかあれば、僕の心臓も止まる可能性がある。そんなことを、16歳の夏に知ったことが、考え方や気持ちの上での転換点となったと思っています。

じいちゃんは穏やかな人でした。激情家で、怒る以外の感情がほとんどない父親と違い、僕にも優しかったし、自分の部屋がなくて、ファミコン部屋で水墨画を黙々と書いているところを、ずっと僕に見せていたのかなって。そして、妹を特に可愛がりました。僕が初孫だったんだけど、当時の父は33歳。じいちゃんはもう60歳を超えていた。まあ、その父は、70を過ぎて初孫を見ることになるんですけど、それは別の話。だから、僕らには優しくしてくれたのだと思います。対して、父とは意見が合わず、じいちゃんが正しいことを言っても、当時の父は、けんか腰で話を聞こうともしなかった。今、まさに僕と父はそんな関係で、僕を言葉で打ちのめしてくる。自分の意見が正論だと激しく罵声を浴びせる。そんな父親も、2021年にガンになり、摘出手術を行って、寿命5年が70%と言われながら、今も何一つ変わることなく、元気で生きているそうです。もともと母方の血が強く、母方のじいちゃんの生き写しと言われるようになってしまった僕は、自分の父親だけど、やっぱり一生相容れない存在なのだと、僕は中学時代から思っていました。ここ20年ぐらいは、音の聞き分けも出来ず、世間の評判だけでオーディオデッキを買うものの、防音すらされていないので、そのスペックを出しきれないまま、小さい音で、SACDを聞くような人。雑学の本を居間にも、自分の部屋にも積み上がるほど読んでいるわりに、テレビのクイズ番組の正解率で、特に興味もない情報を吸収しただけの僕に負けてしまう。もちろん、情に厚く、非情になりきれない性格であることも知っているけど、僕の中では、虐待を受けた親そのもの。だから、僕は父が死ぬ時にしか、分からないままだろうと思っています。まだ、実家に帰ればいるのだから、会えるうちは、会ってもいいかなと思っています。だけど、その孫にも、バカにしたような発言をする。この人もまた不器用で、色々な接し方を知らない、可哀想な人なのかもしれません。同情はしませんけどね。

冒頭の話に戻りますが、散々な修学旅行から帰る頃には、じいちゃんは入院していました。自宅で会った最後が、あの小遣いのシーンだと思うと、30年近く経った今も、なぜ修学旅行なんかに行ったのか?と後悔することがあります。いや、単に修学旅行が、あまりにもひどすぎたから、じいちゃんの入院に付き添いしたかったというのが本音なのかもしれません。そして、今になって、その小遣いは、僕への最後のプレゼントだったのだと、わかる年齢になりました。実は、家族が誰一人見てないところで、こっそり渡してくれたので、後年に、母にその話をした時、非常に驚いていたのを覚えています。かかあ天下のじいちゃんは、年金をばあちゃんに根こそぎ取られていて、少ない小遣いしかもらっていなかった。1万円の使い道が今後ないだろうと知った上で、僕にくれたのだと、解釈しています。
それから1ヶ月後、じいちゃんは84年の生涯を終えました。結局、高校から帰ると、病院の面会時間を過ぎていて、土日も面会の制限があった時代、1回2回ぐらいあったかなという面会の時、すでに半分意識がないような状態だけど、手を握り返してくることで、生きてると分かった。そういう思い出しかありませんでした。

死に化粧をしたじいちゃんは、いつもより生気があるように見えました。つまり、最後の何年かは、体調が悪いまま、ずっと生きていたということです。亡くなってから、元気だったじいちゃんの顔が見られた、不思議なことがあるんだと思いました。
一つ後悔していることがあります。それは、その時の僕が、泣くことが出来なかった。身内で最初に亡くなったからかもしれませんが、ひどく達観してしまっていて、出棺前のあの時に、みんなワンワンと泣いている、それも当時の僕には理解出来なかった。当時はまだまだ健在だった母方のじいちゃんですら、涙を流していた。僕は直系の人間なのに、悲しさよりも、儚さを感じてしまった。なぜ、素直に悲しいと思えなかったのか?それは、今の僕には理解できません。そして、今、これを書いている時、僕は泣いている。同じ後悔ならと良く言いますけど、多分、あのときの僕は、今後悔することを知らない。そして、そこで得た儚さが、その後の僕の人生観を大きく変えてしまった。そのことに気づくこともなかった。歳を取って、生死観の解像度が上がっていくほどに、ひどく歪んだ人生観になっていくのが分かっていて、僕は耐えられなくなるときがあります。自分では、発作と呼んでいますが、根底は死への恐怖に耐えられず、自分で抑え込めない状態の時に、このじいちゃんのことを思い出すと、なぜか落ち着くことが多いです。代償に、泣きわめくことになりますが、恐怖を悲しさで押し込むという方法は、決して正解ではない。けど、僕の人生では、そうするしかないと思っています。

実は、僕はばあちゃんの死に目にも立ち会うことが出来なかった。そっちは、もっとドラマチックな話になり、物書きとして面白くしてしまうので、よほど気が向かない限りは書くことがないと思います。
さらに後年、母方のじいちゃんが亡くなった時、僕は葬儀会場でずっと泣いていて、いとこに当たる年下の子達に、必死に慰められてたことも体験しています。この時は、後悔の念が強すぎるのと、前述の通り、この人には同じシンパシーを感じていて、なによりいとこを含めて、僕だけがその特徴を引き継いでしまったことへの懺悔の気持ちしか考えられなかった。このことは、実はBlogに書いていて、すごく茶化した内容でした。それも、もう13年も前。


僕は、じいちゃんの意思を、どれだけ理解出来たのだろう。40代になって、そんなことを考えるようになったなと思いました。


おしまい

by aru32to | 2024-07-11 00:50 | 想い出話 | Trackback | Comments(0)

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